映画『ナイトフラワー』は、危険だとわかっていながら、それでも進み続けるしかなかった人間の姿を、静かに見つめ続ける作品だ。格闘技と夜の世界で生き延びてきた多摩恵は、夏希とその子どもたちと出会い、初めて自分の外側に「守りたいもの」を持つ。だがそれは、生きる理由を見つけると同時に、破滅へ近づく選択でもあったのかもしれない。本稿では、多摩恵という人物が見つけていった“居場所”を軸に、その選択の意味を読み解いていく。
大きな試合を求め続けた理由──多摩恵が渇望していた“生の実感”
主人公・夏希のボディーガードを引き受けることになる多摩恵は、昼は格闘技の選手としてジムに通い、夜はソープで働く二重生活を送っている。リングの上ではストイックに身体を追い込み、夜の街では自分の身体を切り売りする。そのどちらもが彼女の日常であり、切り離せない現実だ。
多摩恵が格闘技に執着する理由は、「強くなりたい」「勝ちたい」といった健全なスポーツマンシップだけでは説明しきれない。彼女が何度もジムの会長・多田に食い下がり、大きな試合に出られないかと訴える姿からは、むしろ切実な焦りのようなものが滲んでいる。
多摩恵は日常では、ソープで身体を売り、生活費を稼いでいる。それだけでなく、ジムの資金繰りを支えている様子も描かれ、彼女の格闘技は「夢を追うための活動」というより、現実と切り離せないものとして存在しているように見える。リングの上で殴られる身体と、夜の仕事で消費される身体。どちらも、多摩恵にとっては「生きるために使われる身体」だ。
だが、その二つには決定的な違いがある。ソープで働く多摩恵の表情は、どこか感情を切り離した無機質さを帯びている。一方で、リングに立つときの彼女は、恐怖も痛みも引き受けながら、確かに“今ここにいる”顔をしている。勝敗よりも、殴られ、倒され、それでも立ち上がるという行為そのものが、多摩恵に生の実感を与えている。
ウォーリアーズの試合は、その象徴だ。結果として多摩恵は敗れる。身体はぼろぼろになり、観ている側が目を背けたくなるほど痛々しい。それでも、あの時間だけは、多摩恵が最も強く「生きている側」に立っていた瞬間だった。夏希が思わず目を逸らし、小春が「見なあかん」と言う場面は、この試合が単なる勝負ではなく、“生を直視する場”であったことを示している。
多摩恵にとって格闘技は、人生を好転させる手段ではない。生きることの意味を確かめるための、ほとんど、救いを求める行為に近かったのかもしれない。身体を削り、危険に身を置き、それでも前に出ることでしか、「自分はまだ生きている」と感じられなかった――そんな切実さが、彼女の戦いには宿っている。
多摩恵が見つけた「居場所」──“自分のために守る”から“誰かのために守る”へ
多摩恵が最初に「守る」という言葉を口にした場面は、決して美しい動機から始まってはいない。夜の街で、たまたま拾ったドラッグを道端で売っていた夏希が、そのエリアを仕切る売人に見つかり、殴られているのを多摩恵は目撃する。血の気が引くような光景だが、彼女は声を荒らげて割って入るわけでも、正義感から庇い立てするわけでもない。代わりに多摩恵が提示したのは、あまりにも現実的な取引だった。売上の半分をもらう代わりに、夏希のボディーガードになるという。
「守ってやるよ。売上の半分」その提案には、確かに金銭的な理由もあっただろう。生活は楽ではなく、格闘技を続けるためにも金は必要だった。だがそれだけでは説明がつかない感触が、この場面には残る。見ず知らずの夏希のボディーガードになる。多摩恵は、あえて危険な場所に足を踏み入れ、夜の世界の緊張感を引き受ける選択をしている。それは夏希を救うためというより、自分自身が「ここにいる」と確かめるための行為に近いように感じる。
危険と隣り合わせの場所に身を置き、殴られ、踏みとどまる。その極限の状態こそが、多摩恵にとって生きている実感をもたらしていたのかもしれない。だからこの時点での「守る」は、正義でも母性でもない。危うい世界に身を沈めることでしか感じられない“生”の延長線上にある、自己充足に近い選択だったように見える。
だが、物語が進むにつれて、多摩恵の「守る」は静かに変質していく。多摩恵のキャラクターキャッチコピーは「初めて知った愛」だ。自分のためではなく、夏希とその家族のため。夏希との「共犯」は、自分のためではなく、誰かの人生を守るための行為へと、重心を移していく。
象徴的なのが、夏希の子どもたちと食卓を囲む場面だ。最初は「こういうの、苦手なんだ」と居心地の悪さを隠さなかった多摩恵が、いつの間にか同じ時間を過ごし、行動を共にするようになる。餃子が好きな小太郎のために、餃子の被り物でふざけてみせるあの姿は、彼女が初めて「守るべきもの」を自分の外側に持った瞬間だったのかもしれない。海と同じで、親がいなくなったあの時から、生の実感を得られずに生きてきたかもしれない多摩恵にとって、それは初めて出来た”自分の居場所”だった。
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ここでの「守る」は、もう生きる実感を得るための行為ではない。自分が傷ついてもいいから、この小さな世界を壊させないという決意に近い。だから多摩恵は、夏希のブレーキ役になろうとする。しかし、多摩恵に夏希を止めることはできない。止められないのであれば、距離を置くのではなく、徹底的に引き受ける側に回る。止めることができなくても、見捨てることだけはしないという態度を貫く。
それは自己犠牲という言葉で片付けられるほど、単純な行為ではない。むしろそこには、「ここが自分の居場所だ」と認めてしまった人間の、静かな覚悟がある。逃げることも、突き放すこともできたはずの場所で、あえて踏みとどまる。その選択の重さを、彼女は誰よりも理解していた。だからこそ彼女は、夏希のそばに立ち続ける。
格闘技で殴られ、倒されながらも立ち上がること。夜の世界で自分をすり減らしながら生き延びること。それらはすべて、多摩恵が「生きている」と感じるために選び取ってきた手段だった。だが最終的に彼女が辿り着いたのは、戦い続ける場所ではなかった。誰かと同じ食卓に座り、同じ時間を共有するという、ごくささやかな営み。血のつながりはなくとも、確かに守りたいと思える存在と向き合う時間だったのではないだろうか。
多摩恵は、生きる理由を見つけた。そして同時に、その理由のためなら、自分を失うことさえ厭わない場所に立ってしまった。それが安全な選択ではないことを、彼女自身が一番よくわかっていたはずだ。ドラッグの販売がもたらす結末も、それが夏希たちだけでなく、自分をも巻き込んでいくことも。それでも彼女は、その場所にとどまった。初めて「ここにいていい」と思えた場所だったからだ。
この選択を破滅と呼ぶこともできる。同時に、ようやく居場所を見つけた人間の救済と呼ぶこともできる。『ナイトフラワー』は、そのどちらかを断定しない。ただ、多摩恵が「わかったうえで選んだ」ことだけを、静かに描いている。
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