映画『LOVE SONG』を観終えると、キャッチコピーに掲げられた「恋する2人に恋をする」という言葉が、静かに腑に落ちる。物語を理解しただけでなく、説明しきれない感情が胸に残る。そして同時に思い出されるのは、あのとき交わされた視線や、耳に残る音楽、湿った空気をまとった風景だ。私たちはいつの間にか、恋の行方を見守っていたのではなく、恋をしている時間そのものに心を奪われていたのではないだろうか。なぜ『LOVE SONG』は、ここまで深く心を掴むのか。本作が刻みつけた“感情の記憶”を、その理由から紐解いていく。
「恋する2人に恋をする」は、こうして生まれた──ソウタの葛藤と、カイの沈黙が重なるとき
『LOVE SONG』は、主にソウタの視点を軸に描かれていく物語だ。ソウタが何に戸惑い、何を言葉にできず、どこで立ち止まっているのか。観客は彼の近くに立ち、その感情の揺れを追っていくことになる。
ソウタは、劇中、自分の感情をうまく整理できていない。タイでカイに再会し、ナイトマーケットを歩きながら、心の中では「カイが好きだ」と感じている。けれどその気持ちを“恋”として自覚しきれているわけではない。ワタルには冗談めかして「男が好きなのか」と茶化してみせ、カイとキスをしたあとにすら、カイに対して「親友」と口にしてしまう。心はすでに答えを出しているのに、頭と社会的な自己認識が追いついていない。そのぐちゃぐちゃな状態が、否定も誇張もされず、丁寧に描かれていく。
👇なぜ「好き」と言えなかったのか——ソウタ視点で読み解く『LOVE SONG』の感情の境界線
「2gether」の大ヒット以降、タイを舞台にしたBLは広く知られるようになった。とはいえ、まだ馴染みのない人も多いだろう。けれど『LOVE SONG』は、そうした前提や構えを、いつの間にか手放させてしまう。抵抗を感じるどころか、気づけば深く、その世界観に浸らされている。
同性が好きであることが、最初から当たり前として処理される世界線ではない。だからといって、それを特別なテーマとして声高に掲げるわけでもない。ソウタが自分の感情に戸惑い、それをどう受け止め、どう恋として認識していくのか。その過程が静かに積み重ねられていく。だから観客は、「理解しよう」と身構える必要がない。ただ、ソウタのぐちゃぐちゃな感情に巻き込まれながら、言葉にならない感情の流れを追っているうちに、自然とその感情の内側に入り込んでしまう。
そして物語の途中、ソウタの母による“牽制”の回想シーン。その回想が入った瞬間、それまで見えていた風景が、静かに裏返る。それまでミステリアスに見えていたカイの振る舞いが、一気に意味を持ち始めるのだ。高校時代、ソウタの家に泊まった翌朝にかけられた、あの言葉。その一言が、カイに「伝えてはいけない」「踏み込んではいけない」という線を理解させてしまったことが示されたとき、観客はそれまでのカイの沈黙を、別の目で見てしまう。
👇『LOVE SONG』なぜカイは姿を消したのか――二度の牽制で理解してしまった自分の「居場所」
あの距離感は、冷たさではなかった。あの沈黙は、迷いではなかった。カイは、そう振る舞わざるを得なかったのだと、わかってしまう。この回想は短い。けれど、観ている側の受け取り方を決定的に変えてしまう。それはカイの過去を説明するための場面であるだけでなく、観客の視点そのものを変えてしまう場面だからだ。ここから私たちは、もう無邪気に彼の言動を眺めることができなくなる。
ソウタが言葉を選びきれない瞬間、観客は自然とカイの側に引き寄せられていく。それは、ソウタの迷いが描かれれば描かれるほど、その言葉を待ち続けてきた“もう一人”の存在が、浮かび上がってくるからだ。ソウタの揺れる気持ちを追っているはずなのに、いつの間にか観客は、伝えられなかった言葉の向こう側にいたカイの時間まで受け取ってしまう。踏み込まなかった距離、選ばれなかった沈黙、そのすべてが、ここでようやく意味を持って胸に落ちてくる。
だからこの映画では、恋の成就や別離よりも先に、恋をしている途中の時間そのものが強く心に残る。私たちは恋の行方を見守っていただけでなく、言葉にならなかった感情が積み重なっていく、その時間に立ち会っていたのかもしれない。ソウタの視点を軸に描かれながら、感情はいつの間にか二人分、観客の中に流れ込んでくる。その結果として立ち上がるのが、「恋する2人に恋をする」という感覚だ。物語を追っていたはずなのに、気づけば私たちは、二人が恋をしている時間そのものに、静かに心を奪われている。
「恋する2人に恋をする」は、感情として記憶されていく──音楽・視線・風景が呼び起こす、あの時間
「恋する2人に恋をする」という感覚は、関係性や物語の構造だけで生まれるものではない。そこに音楽や視線、風景といった要素が重なることで、その感情はさらに強く、深く刻まれていく。『LOVE SONG』が特別なのは、恋の物語を追わせるのではなく、恋をしている時間そのものを、音や空気ごと体験させてしまう点にある。
映画冒頭の大学時代の屋上のシーンも、二度目以降に観るとまったく違う意味を帯びる。カイがアカペラで歌う未完の「LOVE SONG」を聴いた瞬間、ソウタの中に気持ちが湧き上がる。同時に観客の中にも、カイが積み重ねてきた時間が、音とともに一気に流れ込んでくる。これは、物語を理解する感覚ではない。感情が、思い出されてしまう感覚だ。
『LOVE SONG』が深く心に残る理由は、台詞や展開だけでなく、視線や間、そして呼吸といった、言葉にならない要素が強く刻まれている点にある。何かが語られる前に、視線が逸れる。言葉が発せられる前に、沈黙が訪れる。その一瞬一瞬が、観る側の感情に直接触れてくる。たとえば、歌い終えたあとのカイの表情。涙を流すわけでも、言葉を発するわけでもない。ただ、苦しそうに息を吸い込む。この短い呼吸に、これまで誰にも言えずに抱えてきた想いと、「ようやく伝えられた」という安堵が、同時に滲んでいる。説明は一切ない。それでも、観客には痛いほど伝わってしまう。
👇️向井康二『LOVE SONG』の中毒的な魅力——観れば観るほど、カイが離れない

この映画では、沈黙が何度も重要な役割を果たす。言葉にできないからこそ、感情は視線や距離感として現れる。踏み出さない一歩、重ならない時間、触れられないまま残る余白。それらが積み重なり、物語としてではなく、感情として記憶に刻まれていく。
音楽もまた、物語を説明するためのものではない。カイが作った「LOVE SONG」は場面を彩るBGMではなく、感情を呼び起こす装置として機能している。エンディングテーマである「Gravity」すら、物語を締めくくるための音楽にとどまらない。映画を観ていなくても、ふと音楽を聴いた瞬間に、カイとソウタの距離や、言えなかった想いが、わっと胸に立ち上がってしまう。
👇『(LOVE SONG)』×「Gravity」──切なさと希望をつなぐ“もうひとつの物語”
風景も同様だ。『LOVE SONG』では、感情はいつも、風景と一緒に記憶されていく。ナイトマーケットへ向かう直前、空を切り裂くように走る稲光。あの一瞬の光は、これから始まる時間の高揚と不安を、言葉よりも先に刻みつける。結ばれた翌朝、カイチアウを食べる部屋に差し込むやわらかな光は、静かな幸福が確かに存在していたことを、思い出させる。そして、カイがソウタに「二度と目の前に現れないで」と告げられたあとの大雨。感情が行き場を失った瞬間、その重さを引き受けるように、雨は容赦なく降り続く。これらの風景は、直接的に感情を代弁するわけでも、意味を教えるわけでもない。だが、その場にあった空気や光、湿度は、感情と同時に心に残っていく。だから私たちは後になって、場面を思い返すと同時に、あのとき胸に満ちていた感情そのものを、風景ごと呼び起こしてしまうのだ。
だから『LOVE SONG』は、一度観て終わる映画ではない。物語を記憶するだけではなく、感情を記憶してしまう映画なのだ。音楽を聴くだけで、視線や沈黙、あの空気がよみがえる。あの時間の中で、確かに恋をしていた感覚が、もう一度立ち上がってしまう。気づけば私たちは、恋の行方を見届けた観客ではなく、恋する二人に、恋をしていた側になっている。その体験こそが、『LOVE SONG』という映画が、静かに心を掴み続ける理由なのかもしれない。






コメント