杉木信也が過去を語り、自分を「死神だ」と定義した夜。鈴木信也は静かにつぶやく。「つまんねぇ」
それは、感情の行き場を失った末にこぼれ落ちた一言だった。なぜ、あの瞬間、鈴木は「つまんねぇ」と口にしたのか。その言葉は、何を拒み、何を要求していたのか。本稿では、この一言に込められた鈴木の感情と、そこから露わになる杉木信也の“逃避”を読み解いていく。
鈴木が感じた杉木の静かな逃避
その夜、杉木信也は、過去の話を始めた。まだペアを組んで間もない頃、房子が競技中のアクシデントで取り乱し、精神的に追い詰められたことがあった。彼は房子をフロアに立たせるため、彼女を叱責し続け、思考を奪い、言われるがままに踊らせたという。そして、そんな状態の彼女を「気に入ってしまった」と、まるで事実を確認するように口にする。「僕はもともとそういう男なんでしょうね。紳士とは程遠い、まるで死神だ」その言葉を、鈴木信也は苦しそうな表情で聞いている。どこか一点を見つめ、視線を彷徨わせながら、心の中で問いかける。
「どうして俺は……こんなことを聞いてしまったのか」
その問いは、残酷な過去を聞いてしまったことへの後悔ではない。鈴木が引っかかっていたのは、杉木の行為そのものではなく、それをどう語ったかだった。房子を追い詰め、操るように踊らせてしまったこと。そこに快感めいたものを覚えてしまったこと。杉木が語った内容は確かに重く、簡単に受け止められるものではない。だが鈴木は、その告白を聞いても、杉木を「最低な人間だ」と断じる気にはならなかった。問題は、そのあとに続いた言葉だった。
「僕はもともとそういう男なんでしょうね…まるで死神だ」その自己定義は、反省でも懺悔でもなく、どこか冷静で、整いすぎていた。しかもそれを、悲劇的で、どこか美しい物語として固定してみせる。鈴木の目には、それが自己嫌悪ではなく、自己陶酔に映った。過去の過ちを直視しているようでいて、その言葉は、これ以上踏み込まなくて済む場所に自分を閉じ込めてしまうためのラベルでもあった。「俺はこういう人間だ」と定義してしまえば、そこから先へ進まなくていい。鈴木が感じ取ったのは、その静かな逃避だった。
鈴木は、すでに一度、杉木の“本物”に触れてしまっている。深夜のレッスンを重ねるなかで、ホールドした瞬間、指先の神経まで流れ込んでくる感情があった。優越感や独占欲、征服欲といった剥き出しの衝動。そこに混じる、期待や迷い、触れていいのか分からない不安、壊したくないというためらい。整理されていない、ぐちゃぐちゃで、生々しくて、でも嘘のない感情の塊。それを、鈴木は身体で知ってしまった。
「あれは嘘じゃなかった」鈴木の中には、その確信があった。そして、その感情を、鈴木は本能的に「愛かもしれない」と感じてしまったのだ。だからこそ今、目の前で語られる「死神」「最低な男」という言葉が、どうしても噛み合わない。あのとき確かに触れた、生の感情があるからこそ、自己定義に逃げ込む杉木の姿が、現実から一歩引いた自己演出のように見えてしまう。
鈴木が耐えられなかったのは、杉木の弱さではない。ましてや、かわいそうだとも、守ってやりたいとも思っていない。鈴木の怒りは、「弱いな」「情けないな」という種類のものではない。
――逃げるな。
――そんな簡単な言葉で、自分を片づけるな。
その感情だった。
鈴木には分かっている。杉木は、本当は、誰かと本気で交われる。本当は、壊すだけの男ではない。だからこそ、「俺は死神なんだ」と自分にラベルを貼り、これ以上踏み込まなくていい場所に退いてしまうことが、どうしても許せなかった。対等な場所で向き合ってきた相手が、自分の前で安全な物語に逃げ込む。その瞬間、ふたりの関係は歪んでしまう。鈴木はそれを、本能的に拒んだのだ。
鈴木はしばらく黙り込む。視線を落とし、噛みしめるように沈黙する。その沈黙には、怒りも、戸惑いも、失望も、そして期待も入り混じっていた。どう受け止めればいいのか分からない。どう向き合えばいいのかも分からない。ただ、目の前で自分から逃げていく杉木の姿を見るのが、たまらなく悔しかった。そのどうしようもない感情が、ようやく形になったとき、口をついて出た言葉が「つまんねぇ」だった。むしゃくしゃして、悔しくて、見ていられなくて、やっと絞り出した一言だった。
「そんなところに逃げるな」。
「俺の前で、そんなふうに自分を片づけるな」。
そして同時に、「本気を見せろ」という、無意識の挑発でもあった。「つまんねぇ」は拒絶ではない。どうしたらいいのか分からないという憤りと、それでも向き合ってほしいという願いが、ぶつかり合った末の言葉だった。鈴木はそのまま背を向ける。終わらせたかったわけではない。ただ、これ以上その場にいれば、感情が抑えきかなくなると分かっていたからだ。――そして、その沈黙と怒りを振り切るように、杉木は鈴木を追いかける。
「つまんねぇ」――2人が戻れなくなった瞬間
「つまんねぇ」
その言葉をぶつけられた瞬間、杉木信也の表情が一瞬、止まる。怒られたわけでも、拒絶されたわけでもない。むしろ、そのどちらでもない言葉だったからこそ、想定外だった。杉木は、自分の語りがどう受け取られるかを、あらかじめ決めていた。軽蔑されるだろう。引かれるだろう。最低な人間だと思われるだろう。だからこそ、自分で先に「死神だ」と名乗った。自分を断罪する役を、最初から引き受けた。そのほうが、これ以上踏み込まれずに済む。これ以上、触れられずに済む。
だが、鈴木が返してきたのは、軽蔑でも拒絶でもなかった。「つまんねぇ」その一言には、想定していた反応がひとつも含まれていなかった。あれは否定ではない。むしろ、「そんな語り方をするな」という苛立ちだった。自分を最低な存在として整え、悲劇的に定義し、その場所に立ち止まろうとする姿勢そのものへの反発。
だからこそ、その言葉は杉木の自己防衛を一瞬で揺るがした。理解も同情もされない代わりに、「逃げるな」と突き返された感覚。そこで初めて、杉木は気づく。鈴木は、自分を断罪する役にも、軽蔑する側にも回るつもりがない。最初から、同じ場所に立とうとしていたのだ、と。
その瞬間、杉木の中で何かが反転する。「つまんねぇ」は関係を断つ言葉ではない。むしろその逆で、ここから先へ進んでしまう危険な合図だった。鈴木は、こちらが用意した“最低な男”という役を受け取らなかった。それどころか、その演出そのものを拒否した。
――ここから先は、もう自分で逃げ道を用意できない。
そう気づいたからこそ、杉木は追いかける。鈴木を引き止めるためではない。言い訳をするためでもない。踏み込む前提で、どうしても確認しなければならないことがあった。杉木が追いつき、言葉を探す。その口からこぼれたのが、「いやなら、やめても……」だった。
それは譲歩でも、優しさでもない。踏み込む覚悟を決めきれないまま、それでも進もうとする人間が、無意識に差し出してしまう逃げ道だった。――嫌なら、ここで引き返せる。
そうやって、選択肢を並べてしまうことで、自分が傷つかない余地を残す。杉木はまだ、言葉で関係を制御しようとしていた。その瞬間だった。鈴木は、もう聞かないと決めたように、杉木の言葉を途中で断ち切る。
キスは、同意ではない。
答えでも、許可でもない。
遮断だった。
「いやなら、やめても」その一言が持ち込もうとした、迷いも、保険も、弱気も。言葉に変換される前の感情だけを、強引に引きずり出す行為だった。心で感じろ。言葉で逃げるな。本気なら、ここに立て。鈴木はそう言葉にしなかった。だからこそ、身体で塞いだ。このキスは、関係を進めるための合意ではない。むしろ逆だ。これ以上、言葉で自分を小さくするな、と迷いごと、黙らせた。
杉木が差し出した「弱気な余白」を、鈴木は許さなかった。同情もしない。理解者にもならない。ただ、真正面からぶつかることだけを要求した。だからこの瞬間、主導権を握ったのは鈴木だ。追いかけてきた杉木を受け止めたのではない。逃げ腰の一歩を、強制的に踏み越えさせた。
ここでようやく、杉木は言葉を失う。演出も、定義も、自己断罪も通用しない場所に、引きずり出されたからだ。「いやなら、やめても」と言ったはずの男は、そのあと、もう一度引き返すという選択肢を持たない。「つまんねぇ」から始まった一連の流れは、 ふたりが同じ危険な場所に足を踏み入れてしまった、その瞬間の痕だ。 それは合意ではない。 遮断を越え、戻れない線を越えてしまった――心も身体も、もう引き返すことができなかった。
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