亜子が入院する病院で、涼はふと、自分が“恵のふり”をしていないことに気づく。慌てて眼鏡をかけ、髪の分け目を整える。その仕草は、正体がばれることを恐れた反応というよりも、自分はまだ、恵でいなければならないと、自分に言い聞かせる仕草のようにも見える。ここで、ひとつの疑問が浮かぶ。涼は、亜子がすでに気づいているかもしれないことに、気づいていたのだろうか。本稿では、病院でのやりとりや、涼の振る舞いを手がかりにしながら、彼が選び続けた態度と、その意味を読み解いていく。
病院に向かった涼は誰だったのか——“涼”と“恵”の狭間で
ニュージーランドでの事故から帰国後、亜子と“恵”は、穏やかな日常を取り戻しているように見える。だが、その静けさの中で、亜子の身体に異変が起こる。事故の後遺症による複視。手術が必要だと分かっても、亜子は恵にそれを告げず、「出張」と嘘をつき、ひとりで入院する決断をする。
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この行動は、物語の中で静かに描かれているが、極めて重要だ。なぜなら、それまでの亜子は、“恵”とともに生きることで、かろうじて日常を保っていたからだ。恵を失ったあと、亜子は一人では立ち上がれない状態にあり、その時間を“恵としてそばにいる涼”に支えられていた。作中の描写からも、亜子が手術を前に強い不安を抱えていたことは疑いようがない。にもかかわらず、彼女は手術という重大な決断を、誰にも告げずにひとりで下す。この時点で、観客はもちろん、涼の立場に立っても、違和感を覚えずにはいられない。
その入院の事実を知った涼は、考えるより先に、病院へ向かっている。そのときの涼は、恵の装いではない。眼鏡もなく、髪の分け目も整えていない。恵になりきるための準備をする時間すらなく、ただ涼のまま、病室に駆け込む。そこにあるのは、役割を演じる余裕のなさだ。ばれてしまうかどうかを考える前に、亜子のことが心配で、身体が動いてしまった。その衝動は、涼がこの瞬間、誰かの代わりではなく、一人の人間として亜子を案じていることを物語っている。
病室で涼が口にする言葉には、迷いがない。「亜子……なんで……なんで出張なんて嘘を……」責める調子ではない。ただ、心配と戸惑いがそのまま零れ落ちたような声だ。亜子は言う。「いつまでも頼ってばかりじゃ……こんなの、一人でも大丈夫だから」それは自分に言い聞かせるような一言だった。恵を失ったあと、誰かに支えられなければ立っていられなかった自分が、これ以上、“涼”に重荷を背負わせてはいけない──そんな思いが、短い言葉の奥に滲んでいる。
その言葉を遮るように、涼は言う。「頼っていいんだよ。俺は、ずっとそばにいるから」この一言は、恵としての役割から出たものではない。代わりを演じる人間の台詞でもない。目の前の亜子に向けて、涼自身が発した、本心そのものだ。これ以上迷惑をかけられない、という亜子に、涼は即座に返す。「当たり前のことしてるだけだよ。俺は、ずっと亜子のそばにいたいだけだから」この言葉は、涼自身の言葉だ。彼はこの瞬間、誰かの代わりとしてではなく、一人の人間として亜子の前に立っている。
だが、その直後、涼は自分が恵の姿でないことに気づき、慌てて眼鏡をかけ、髪の分け目を整える。この仕草は、「ばれてしまう」というよりも、涼でいたい気持ちを、そっと引き戻すように。自分はまだ、恵でいなければならないと、自分に言い聞かせる仕草だったのではないか。涼はこの場面で、涼としての自分と、恵であるべき自分のあいだで、瞬時に後者を選び取ったのだ。
亜子が求める存在であり続けるために——
亜子が「“涼”に頼らずに立とうとしている」こと。自立しようとする意志が芽生えていること。その変化に、涼がまったく気づかなかったとは考えにくい。だけど彼はただ、恵になることを選び続ける。亜子が自立しようとしている兆しに気づいたとしても、それを理由に役割を降りることはしない。むしろその変化を前にして、より強く「恵でいなければならない」と自分を縛っていくようにも見える。
涼の行動を振り返ると、彼がしていたのは、単なる“偽装”ではなかったように思える。筆跡を練習する。恵が好きだった星について学び続ける。これらは確かに、「涼だと疑われないため」の行動でもある。だが同時に、それだけでは説明しきれない温度を帯びている。涼は、ただ正体を隠そうとしていたのではない。亜子の前に立つとき、「これは恵だ」と思える存在であろうとしていた。亜子が必要としている“恵”に、自分を近づけようとした。涼にとって重要だったのは、「ばれるかどうか」ではない。亜子が目の前の存在を、恵として受け取れるかどうか。その一点だったのではないか。
仮に亜子が、本当に何も知らず、目の前の人物を恵だと信じ切っていたとしても。仮に、どこかで気づきながら、代替として涼を見ていたとしても。そのどちらであっても、涼にとって決定的な違いはなかった。亜子が“恵”を必要としているなら、自分は恵でいよう。涼が引き受けていたのは、亜子の時間を壊さないための立場だった。亜子は気づいていたかもしれない。けれど、それを確認することはできないし、するべきでもなかった。もし確認してしまえば、亜子を一気に現実へ引き戻してしまう。それは、彼女を守ることにはならない。
涼は、答えを知ろうとしなかった。
その代わりに、態度で示し続けた。
恵として振る舞い続けること。亜子が求める存在であり続けること。それが、涼にできる唯一の支え方だった。
この問い——
「涼は、亜子が気づいていることに気づいていたのか」
その答えは、言葉ではなく、行動の積み重ねとして描かれている。涼は、気づいている可能性を抱えたまま、それでも役割を降りなかった。それは、亜子が、恵を失ったという現実に向き合う準備を整えるまでの、時間を差し出すためだった。気づいていたかもしれない。それでも、涼は恵であり続けた。その選択こそが、この問いに対する、涼なりの答えだったのではないか。




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