服や小物などに繰り返し現れる色彩。『ナイトフラワー』を観ていると、なぜか赤と青が強く記憶に残る。そしてふいに語られる、「紫だった」という、海の記憶の中の海。それはただの印象的な色だったのか。それとも、この物語が静かに差し出した“違和感”だったのか。本記事では、『ナイトフラワー』に散りばめられた色の使い方から、海が見た「紫の海」が何を指していたのかを、紐解いていく。
赤と青が示すもの──『ナイトフラワー』に塗り分けられた世界
『ナイトフラワー』を観ていると、物語の随所で赤と青という対照的な色が、強く印象に残る。それは美術的な装飾というより、登場人物の在り方や、彼らが立っている場所を無意識のうちに示しているようにも見える。
たとえば夏希は、物語のほとんどの場面で、赤やショッキングピンクといった強い色の服を身にまとっている。それは一度きりの演出ではなく、場面が変わっても繰り返される視覚的な特徴だ。夏希は常に、目の前の現実と真正面から向き合っている人物である。子どもを守るため、生き延びるため、危険だと分かっていても前に進む。その選択は衝動的に見えることもあるが、根底にあるのは「生きる」という一点への強い執着だ。赤やショッキングピンクという色は、その切迫感や熱量を、言葉よりも雄弁に伝えているように見える。夏希がまとう強い色は、彼女がこの世界に必死につかまり、燃えるように生を選び続けていることの視覚的な痕跡なのかもしれない。
一方で、多摩恵が身に付ける服装には青や紫、緑といった寒色が多い。どこか冷たく、静かな色調で統一されている。多摩恵は夏希とは対照的に、感情を大きく表に出すタイプではない。家族を失い、身体を売る仕事をしながら生きる彼女は、日常そのものをどこか無機質に受け入れているように見える。その姿は、青が持つ冷静さや距離感と重なり、半歩、現実から引いた場所に立っている印象を与える。
その「青の世界」を、より露骨な形で体現しているのが売人のサトウだ。サトウは終始、青いジャージを身にまとって登場する。感情をほとんど表に出さず、誰かの人生が壊れていくことにも深く関与しながら、そこに善悪やためらいを挟まない。彼にとって夜の世界は、危険でも悲劇でもなく、ただ淡々と循環させるべき「仕組み」だ。その無機質さ、温度のなさは、彼がまとう青という色によって強調されているように見える。サトウの青は、感情を削ぎ落とし、人を「モノ」として扱う世界の冷たさそのものだ。
そして、その青は海へと受け継がれていく。池田海もまた、青い車に乗り、デニムを基調とした青い服装で描かれることが多い。彼はサトウのように感情を完全に切り捨てた存在ではない。怒りも見せるし、苛立ちも口にする。だがその内側には、最初からどこか“沈みきった静けさ”がある。海は夜の世界を選んでいるというより、すでに心が深いところに沈んだまま、そこから浮上する術を失っているように見える。冷たさに慣れ、息を止めたまま生きている感覚。彼の青は、循環に身を委ねる色ではなく、底に留まり続ける色だ。感情を抱えたまま、浮かび上がれずにいる。その停滞した深さこそが、池田海という人物の立ち位置を静かに示しているように思える。
こうして見ていくと、『ナイトフラワー』における赤と青は、単なる色分けではなく、人物たちが立っている“場所”そのものを示しているように思えてくる。赤は、危うくても、醜くても、それでもなお前に進もうとする「生」の色。一方の青は、感情を削ぎ落とし、夜の循環に身を委ねながら、どこかで生から距離を取っている色だ。もちろん、本作は赤=完全な生、青=完全な死といった単純な構図を描いてはいない。だが、赤が「必死に生にしがみつく選択」を、青が「静かに生から滑り落ちていく状態」を無意識のうちに観客へ刷り込んでいるのは確かだろう。そして、その二つが混ざり合うときに現れる色こそが、物語の核心へとつながっていく──あの“紫”という、どちらにも完全には属さない色へと。
紫が浮かび上がるとき──色が揺らす境界
『ナイトフラワー』が巧みなのは、人物を単色で固定しない点にある。赤の世界に生きているように見える夏希も、青の側に立っている多摩恵も、物語が進むにつれて、その境界を少しずつ揺さぶられていく。その揺らぎは、服装だけでなく、髪の色や小道具といった細部にまで丁寧に仕込まれている。
たとえば夏希だ。彼女は基本的に、赤やショッキングピンクといった「生」に強く結びつく色をまとっている人物だが、髪には水色のアクセントが入っている。この配色は一見するとファッションの一部に見えるが、物語を通して見ると意味深だ。夏希は誰よりも必死に生を選び続けているが、その生は決して安定したものではない。常に危険と隣り合わせで、崩れ落ちる可能性を抱え込んでいる。赤一色では塗り切れない不安定さ、その「危うさ」が、青に近い色として髪に滲み出ているようにも見える。
一方、多摩恵は物語の途中で髪を青く染める。それは彼女がより夜の世界へ、より「青の側」へと足を踏み入れていったことを、視覚的に強く印象づける変化だ。家族を失い、身体を売りながら生きる日常を、感情を切り離すことでやり過ごしてきた多摩恵。その青は、彼女が生から距離を取り、半ば無機質な状態で生きていることを象徴しているように見える。
だが多摩恵が、常に青の側に留まり続けているわけでもない。物語の中には、彼女が赤い服を身にまとう場面がいくつか存在する。例えば、小春のバイオリンの発表会のシーン。最初は「家族」という空間に居心地の悪さを覚え、距離を取っていた多摩恵が、彼らと同じ場所に腰を下ろし、同じ時間を共有するようになったとき、彼女は赤を身にまとっている。それは闘争の色ではなく、血の匂いを伴う赤でもない。誰かと一緒にいることで、ほんの一瞬でも「ここにいていい」と感じられた時間の色だ。青の世界に身を置いてきた多摩恵が、わずかに生の側へと足を踏み出した、その揺らぎが、赤という色となって画面に現れているように見える。
そして、そうした赤と青のあいだに浮かび上がるのが、海が語った「紫の海」だ。子どもの頃、親がいなくなった時に見たという、紫に見えた海。本来、海は紫には見えない。つまりそれは、現実の色ではなく、海の心が見てしまった“異常な色”だった。赤でもなく、青でもない。生に必死にしがみつく側でも、完全に夜へ沈みきった側でもない。紫という色は、『ナイトフラワー』において、生と死、そのどちらにも完全には属さない「境界」を示しているように思える。海が見ていたのは、美しい景色というよりも、生と死の境に立たされた瞬間の世界だったのかもしれない。
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赤と青が交差し、紫が浮かび上がるとき──『ナイトフラワー』が描いているのは、生と死を単純に分ける世界ではない。必死に生にしがみつく赤も、静かに夜へと溶けていく青も、どちらか一方だけでは成立しない。人はそのあいだで揺れ、混ざり合い、境界に立たされる。
『ナイトフラワー』が残す余韻は、答えを提示しない。赤と青のどちらが正しいのかも、紫が救いなのか終わりなのかも、明確には語られない。ただ、この物語は静かに問いかけてくる。人が「生きている」とはどういう状態なのか。どこからが夜で、どこまでが昼なのか。昼には咲かないはずの花が、もし昼に咲いたとしたら──それは奇跡なのか、異常なのか、それとも境界に立った者だけに見える景色なのか。赤でも青でもない場所に、一瞬だけ現れる紫。その色こそが、『ナイトフラワー』という物語が最後まで手放さなかった、曖昧で、残酷で、そしてあまりにも人間的な答えなのかもしれない。
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