映画『大洪水』は、タイトルどおりのディザスタームービーだと思って観始めると、確実に戸惑う作品だ。都市をのみ込む洪水、次々と迫る危機、圧倒的な映像スケール──序盤は王道の災害映画として進んでいく。しかし物語が進むにつれ、焦点は「生き延びるかどうか」から、まったく別の場所へと移っていく。本作が描こうとしているのは、災害そのものではない。極限状況の中で生まれていく感情、そして“母性”だ。ディザスターの皮をかぶりながら、SFと人間ドラマへと姿を変えていく。その構造こそが、『大洪水』の最も新しい点である。
ディザスターの文法で始まる序盤──“助かる映画”に見えた理由
物語の序盤は、徹底してディザスタームービーの文法で描かれる。アンナが暮らしているのはマンションの3階。目を覚ますと、外はすでに水に覆われており、警告やニュースを確認する余裕もないまま、事態は一気に日常を侵食していく。水位は想像以上の速度で上昇し、やがて1階、2階をあっという間にのみ込む。3階のアンナの部屋にも浸水が始まり、彼女は必要最低限の荷物と、ジャインの薬だけを手に部屋を出る。廊下には、同じように上層階を目指す人々が溢れかえり、建物の中から逃げ場が失われていく感覚が否応なく伝わってくる。水はただの背景ではなく、人の行動を縛り、選択肢を奪う存在として機能している。高層階へと追い詰められていくこの序盤は、災害映画として非常に分かりやすく、観る側も自然と「どうやって助かるのか」という思考へと導かれる。
やがてAI研究者であるアンナを救うため、パク・ヘス演じる救助隊員・ヒジョが現れ、救出作戦が本格化する。浸水した建物を抜け、危険をかいくぐりながら屋上へと向かう流れは、緊張感のある王道のディザスター展開だ。間一髪でヘリに辿り着き、ようやく助かった――そう思った瞬間、物語はわずかに歪み始める。救出の最中に交わされる「ジャインを返す」という不自然な言葉遣い、そして組織がアンナ本人以上にジャインの安否を重視している様子。さらに、ヘリに乗り込む直前、ジャインは“回収”され、アンナだけが取り残されるように機内へと乗せられる。命の優先順位がどこかおかしい。その理由は明かされないまま、違和感だけが残される。
救出されたアンナは、そのまま地球を離れ、宇宙へと向かう。洪水からの脱出という目的は果たされたはずなのに、映画は終わらない。ここで舞台は一気に宇宙船へと移り、作品は明確にディザスターからSFへと舵を切る。しかしその宇宙船も事故に遭い、アンナは意識を失う。そして次の瞬間、彼女は再び自分の部屋で目を覚ます。洪水が起こる前の、あの朝。避難を開始する前の時間に戻っているのだ。
同じ朝、同じ部屋、同じ日常。再び洪水が始まり、再び逃げ、再び選択を迫られる。この時点で観客は、これは一度きりの災害を描いた映画ではないと気づき始める。物語は何度も繰り返されている。そのことを決定的に示すのが、アンナが身につけているTシャツの番号だ。目覚めるたびに増えていく数字。それが、この世界が何度目の“やり直し”なのかを示していると理解した瞬間、映画の意味は大きく書き換えられる。
ここで明かされるのが、ジャインの正体である。彼はアンナの実の息子ではなく、極めて重要なAI研究の対象だった。そしてこのプログラムの目的は、高度な知能や判断能力の獲得ではない。AIに「母性」を身につけさせること。そのために、アンナとジャインの関係性、災害下での選択、守るという行為が、何度も繰り返し検証されていたのだ。洪水は世界を壊す装置であると同時に、感情を極限まで引き出すための舞台装置でもあった。
ディザスタームービーだと思って観始めた映画は、いつの間にか「母性はどのように形成されるのか」という問いへと姿を変えている。生き延びるかどうかではなく、誰を、どこまで、守ろうとするのか。その選択の積み重ねこそが、この映画の核心だ。観客は最後に気づかされる。『大洪水』が描いていたのは災害ではなく、感情が生まれる瞬間そのものだったのだ、と。
SFへと反転する物語──『大洪水』が選んだ新しさ
『大洪水』の新しさは、ディザスタームービーとして始まりながら、途中からSFへと静かに姿を変えていく構造にある。観客は洪水からの脱出という分かりやすいゴールを想定し、アンナとジャインの行方を追う。しかし物語は、災害を乗り越えることそのものよりも、「その中で何が起きていたのか」に視線を向けさせる。このジャンルのすり替えが、本作の第一の仕掛けだ。
もうひとつ重要なのは、「母性の描かれ方」である。アンナは最初から母性を持った人物ではない。彼女はAI研究者として、ジャインをいずれ組織に返す前提で育てていた。守る対象ではあるが、それは研究対象としての管理であり、「母であろう」と意識していたわけではない。だが日常を共にし、世話をし、判断を重ねるうちに、アンナの中にはいつの間にか母性が備わっていく。その変化は、本人にもはっきりと自覚されないまま進行している。
決定的なのは、大洪水が起きた日――ジャインが回収されたその時点で、すでにアンナの中に母性が芽生えていたという事実だ。別れ際、アンナは組織からジャインを守るために、こっそりと「次は屋上の物置に隠れて」と告げる。それは研究者としての合理的判断ではなく、明確に“守る側”の選択だった。この瞬間、アンナはもう、ジャインを返すだけの立場ではなくなっている。
だからこそ、2回目以降に繰り返される洪水の意味が変わってくる。プログラムの中で、アンナは何度もジャインを探し続ける。その姿は一見、「繰り返しの中で母性が芽生えていく物語」に見える。しかし実際にはそうではない。母性は、繰り返しの中で新しく獲得されたものではない。すでに芽生えていた感情が、何度も反復され、可視化されているにすぎないのだ。
ジャインが毎回姿を消す理由も、その構造を補強している。彼はアンナの言葉を信じ、言われた場所に隠れ続けていた。アンナが必ず助けに来てくれると信じて。その信頼は、プログラムによって学習されたものではなく、1回目の現実の中で結ばれた関係性の結果だ。AIであるジャインの行動は、母性を試す装置であると同時に、すでに成立していた関係を映し返す鏡でもある。
『大洪水』が新しいのは、母性が「劇的に生まれる瞬間」を描かない点にある。気づかないうちに芽生え、すでに存在していた感情が、災害とSFの仕掛けによって浮かび上がってくる。その過程を、ディザスタームービーの形を借りて描いたこと。そこに、この作品ならではの更新性がある。観終わったあとに残るのは、母性がいつ生まれたのかという答えではなく、「もう戻れないところまで来ていた」という静かな実感なのだ。
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