なぜ向井康二の闇落ちは、こんなにも刺さるのか――『ラストマン FAKE/TRUTH』栗原幹樹から読み解く

日本ドラマ

特別ドラマ『ラストマン FAKE/TRUTH』は、「正しさ」と「真実」のあいだで切り捨てられていく人間を描いた物語だ。その中心に立つのが、向井康二演じる栗原幹樹である。怒りや狂気を露わにするのではなく、静かに、取り返しのつかない地点へと立ち尽くしていく――向井が見せた演技は、悪役という言葉では片づけられない余韻を残した。本稿では『ラストマン FAKE/TRUTH』の物語をひもときながら、向井康二が描いた人物像の奥行きに迫っていく。

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正義のために人生を失った人たち──フェイクに踊らされ、切り捨てられていった真実

『ラストマン FAKE/TRUTH』は、2023年に放送された連続ドラマ『ラストマン』のその先を描く物語だ。護道がニューヨークで研修を受け、皆実とともに国際的なテロ組織を追っているところから物語は始まる。だが日本に戻ってきた護道は、皆実に対してどこか距離を取っている。皆実がかつて、余命いくばくもないと嘘をつき、護道と佐久良円花を引き合わせようとしたこと──いくら護道のためを思ってと言っても、その行為は、護道の中に割り切れない感情を残していた。

そんな中、皆実は日本のテレビ番組への出演を決める。しかしそのテレビ局は、爆弾を仕掛けたというテロ犯によって占拠される現場となってしまう。占拠されたスタジオには皆実、キャスターの播摩みさき、そして現職の総理大臣もゲストとして居合わせ、生放送中の報道番組という、逃げ場のない空間に彼らは捕らえられる。犯人の要求は明確だ。総理が過去に犯した罪を、国民の前で告白しなければ、都心部を爆破する──。国家と個人、正義と命を天秤にかける究極の選択が突きつけられる。

この事件とともに浮かび上がるのが、キャスター・播摩みさきと、番組ディレクターである栗原幹樹の過去だ。世間では、播摩と栗原は不倫関係にあり、そのスキャンダルによって彼女は干された──そんな噂がまことしやかに語られていた。だが真実は違った。ふたりは不倫関係などではなく、不正な金を受け取っていた総理の不正を暴こうとしていたのだ。真実に迫ろうとする2人を社会的に抹殺するため、総理大臣の圧力によって不倫スキャンダルがでっちあげられたのだ。

その結果、播摩の実家にはパパラッチが押し寄せ、過剰な取材と中傷にさらされた母親は、心労の末に命を落とす。栗原もまた、この出来事をきっかけに、子どもがいじめに遭い、家庭は静かに崩れていった。妻とは離婚し、守るべきだったはずの日常は、いつの間にか跡形もなく失われていた。彼らが選んだのは、正義だった。だが返ってきたのは、称賛ではなく、偽の情報に踊らされた国民とマスコミによる、容赦のない視線だった。真実を明かそうとした人間ほど、声を奪われ、人生を壊されていく。播摩と栗原は、正義の名のもとに、静かに切り捨てられていった存在だった。

暗く、光の入らない散らかった部屋。そこに飾られた家族写真や、子どもが描いた絵は、栗原幹樹がたどってきた過去と、失われてしまった現在を、多くを語らずに物語っている。やがて、立てこもり事件の首謀者が、播摩みさきと栗原であることが明らかになる。だが、彼らが仕掛けたとされた“爆弾”は、実在しなかった。爆発映像はフェイク。国民に見せたかったのは、「あなたたちが日々信じている映像や情報も、 同じように簡単に作られたものかもしれない」という事実だった。しかし皮肉にも、実行犯として手を組んだ国際テロ組織の暴走によって、播摩と栗原自身もまた、思惑とは異なる方向へと踊らされていく。2人は、事件の首謀者でありながら、完全に状況を支配していたわけではなかった──

事件の「犯人」という立場に置かれた播摩と栗原。だが『ラストマン』の面白さは、視聴者にそれを単純な悪として切り捨てさせない点にある。勧善懲悪の構図には、決して回収されない。むしろ、自分もまた、無自覚の加害者だったのではないか──フェイク情報を信じ、拡散し、誰かの人生を壊してきたのではないか。そんな、言葉にしきれないもやもやを、視聴者の胸に残していく。その意味で、播摩と栗原の行動は、“悪”として割り切るには、あまりにも生々しい。彼らは、正しさと過ちの境界で、確かに生きていた人間だった。

乾いた笑いに宿る、人間の輪郭──官兵衛と栗原幹樹で見る、向井康二の演技の奥行き

護道たちに踏み込まれた瞬間の栗原幹樹は、もはや抵抗する様子すら見せない。「もう遅い」と言わんばかりに、口元を歪めて乾いた笑いを浮かべる。だが、その笑みとは裏腹に、向井康二が演じる栗原の目には、悲しみしか宿っていない。笑っているのに、目が笑っていない。それどころか、そこには生気すら感じられない。

警視庁に仕掛けられた爆弾の現場にいるのは吾妻だ。その吾妻が爆破に巻き込まれたと信じた泉は、栗原のもとへ駆けつけ、胸ぐらをつかんで詰め寄る。怒りと焦りがないまぜになった泉の瞳は、「どうしてこんなことをした」と声にならない叫びを宿している。だが、その視線を真正面から受けながらも、栗原は抗おうとしない。胸ぐらをつかまれてなお、その目は空虚で、まるでこの現実からすでに切り離されてしまったかのようだ。

視聴者は、栗原が「なぜそこに立っているのか」を知っている。不正を暴こうとし、正義のために行動した結果、人生を壊されてきた過程を、すでに見せられている。だからこそ、彼が犯人であると分かっていても、その苦しみを受け取らずにはいられない。そして、乾いた笑いの奥にある悲しみを、向井の“目”が確かに伝えてくる。

向井の悪役といえば、滝沢歌舞伎ZEROで演じた官兵衛を思い出す人も多いだろう。世直しのためと称し、江戸で人を斬り続ける悪党。官兵衛にも、不敵に笑う場面がいくつかあった。だが、官兵衛の笑みには、瞳孔が開いたような、何を考えているのか分からない恐ろしさがあった。そこには、生への執着と、破壊衝動が渦巻いているようだった。一方、栗原の笑みは違う。同じ“不敵な笑い”であっても、その目には、生への欲が感じられない。すでに多くを失い、立ち尽くすしかなくなった人間の表情だ。

だが──栗原が国際的テロ組織に踊らされていたと知る瞬間、その目に、わずかな変化が訪れる。爆弾はすべてフェイクのつもりだった。それでも、渋谷の爆弾が実際に爆発したと知ったとき、栗原の目に、かすかな生気が戻る。それは“生き生きとする”という意味ではない。「本当に起きてしまった」という現実に、きちんと驚いてしまう人間らしさだ。不正を暴こうとしていた正義の人。誰かを傷つけるつもりはなかった男。正義を信じていた人間の輪郭が、わずかに、目の奥に戻ってくる。

それは単なる悪役の魅力ではない。官兵衛がそうだったように、栗原幹樹にもまた、その背景を想像せずにはいられない“奥行き”があった。官兵衛が“測りきれない狂気”をまとっていたとすれば、栗原幹樹は“理解してしまう苦しさ”を背負っていた。同じ不敵な笑みでも、向井康二はそこに、まったく違う感情を宿らせている。向井康二は、悪を誇張するのではなく、そこに至るまでの時間や喪失を、静かににじませてみせる。悪役であることは変わらない。それでも、背景を思わず考えてしまう。それが、向井康二の悪役が持つ、確かな魅力だ。

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