『恋の通訳、できますか?』では、ムヒの中に芽生えた〈ドラミ〉という別の人格が、何度もヒロに接触する。一方で、ムヒ自身はその出来事を覚えていない。視聴者としては、ここでひとつの疑問が浮かぶ。――ヒロは、ムヒの中にある“違和感”に気づいていたのだろうか。本稿では、ヒロがムヒの中の違和感を「問い直さなかった」ことに注目し、その行動が何を示していたのかを読み解いていく。
ヒロだけが覚えている、二つの出来事――「覚えていない」という隔たり
物語中盤、ムヒには過去のトラウマをきっかけに〈ドラミ〉という別人格が現れるようになる。以降、ヒロはたびたび、そのドラミ人格のムヒの言動に翻弄されていく。
ヒロが最初にその違和感に触れるのは、カナダロケの帰り、飛行機の中での出来事だ。ムヒに呼び止められ、突然キスをされる。さらに何か言葉をかけられるが、それは韓国語で、ヒロには意味が分からない。ただ、「何か大切なことを言われたらしい」という感触だけが、胸に残る。
この場面は、一見するとロマンティックな転機にも見える。実際、ヒロにとってこの出来事は、ムヒを強く意識する決定的なきっかけになっている。撮影初期に見せていた露骨な苛立ちは影を潜め、気づけば彼は、ムヒのことばかり考えるようになっていく。だからこそヒロは、あのときムヒが何を言ったのかを知ろうとする。短期間で韓国語を学び、わざわざ韓国まで会いに行く。
しかし、そこで返ってくるのは、期待していた答えではない。ムヒはキスをしたこと自体を覚えておらず、「自分があなたにキスするはずがない」と、きっぱり否定する。ヒロは戸惑いながら、「何て言ってるかは分からないけど、全力で否定してることだけは分かるな!」と苛立ちをあらわにする。その言葉どおり、彼が受け取ったのは説明ではなく、拒絶に近い温度だった。
もっとも、この反応は、ヒロにとってまったくの想定外というわけでもない。彼はすでに、レッドカーペットで倒れかけたムヒを助けたにもかかわらず、その出来事自体を彼女が覚えていなかった経験をしている。「なんだよ」と思いながらも、「ムヒなら、ありえるのかもしれない」と、どこかで飲み込んでしまったかもしれない。その延長線上で、飛行機のキスもまた、「覚えていない出来事」として処理されていく。
だが、この構図は一度きりでは終わらない。別れ際、ムヒは「イタリアで待ってる」と告げる。ヒロにとってそれは、意味をはっきり掴めないまま残された約束だった。期待と違和感を抱えたまま、彼はその言葉を胸にイタリアへ向かう。ところが再会したムヒは、その呼びかけ自体をまた覚えていない。なぜ自分がここにいるのか。なぜヒロがいるのか。本人にも分からないまま、ただ戸惑っている。
ヒロだけが覚えている出来事。
ムヒは覚えていない。
二度にわたって、ムヒはヒロとの決定的な出来事を覚えていなかった。飛行機でのキスと、イタリアへの呼びかけ。ここで視聴者は、自然とこう思う。これほど思わせぶりな態度を向けられ、そのたびに「覚えていない」と返されて、不審に思わないのか。理由を問い直そうとはしないのか、と。
問いにならなかった理由――ヒロとムヒのあいだにあった距離
「キスなんてするはずがない」ムヒがきっぱりと否定する場面で、ヒロは少なくともひとつのことを受け取っている。言葉の細部は分からなくても、「全力で否定している」という感情だけは、はっきりと伝わっているということだ。ムヒが、韓国語の分かるマネジャー・ナナミを呼ぼうとしたとき、ヒロはそれを制する。「呼ばなくていい。俺の知りたいことは、もう全部わかったから」
ここでヒロが受け取ったのは、出来事の理由ではない。ムヒがなぜ覚えていないのか、その説明でもない。今、目の前にいるムヒの感情が、自分を向いていないという事実だった。そして彼は、はっきりと言葉にする。「俺はあのとき、お前がなんて言ったかじゃなくて、どんな気持ちだったかを知りたかったんだ」
この一行は、黒澤ヒロという人物を端的に示している。ヒロは、言葉を欲していたわけではない。答えを求めていたわけでもない。彼が知りたかったのは、その瞬間、二人のあいだにどんな距離があったのか、その手触りだった。だからヒロは、「覚えていない理由」を確かめようとしない。というより、そもそもそこに強い関心が向いていない。彼女がなぜ覚えていないのか。そうした事情は、彼にとって本質ではないからだ。ヒロが何度も突きつけられていたのは、ただ一つの事実だった。――ムヒの感情は、自分を向いていない。理由が何であれ、その結果は変わらない。その距離だけが、繰り返し、静かに示されていく。
それでもヒロは、距離を引かない。イタリアでの食事の帰り道、タクシーを前に立ち尽くすムヒにかける「いくよ」という声は、これまでよりもずっと柔らかい。後部座席に乗るとき、頭をぶつけないよう自然に添えられる手。彼女を見る視線も、いつの間にか穏やかさを帯びている。自分のほうを向いていないと分かっているのに、気づけば丁寧に扱ってしまっている。理屈よりも先に、態度だけが変わってしまう。
そんな無防備な優しさがこぼれ落ちた直後だからこそ、マネジャーの一言は、やけに胸に残る。「ムヒさん、ヒロさんの前だとキラキラしてますよね」ヒロは分かっている。その“きらめき”が自分に向けられたものではなく、イヤモニ越しに届くホジンの声に向けられていたことを。
ムヒの感情が自分を向いていないことがはっきりしている以上、ムヒの行動は、ヒロにとって説明のつかない出来事ではない。だからこの先、視聴者が抱いた問い――ヒロは、ムヒの違和感に気づいていたのか、という疑問は、少しずつ意味を失っていく。
結論として、ヒロはドラミという別人格の存在に「気づいていなかった」のだと思う。だが同時に、そのことはヒロにとって全く重要ではない。ドラミだったから覚えていなかったのか。それとも、ヒロに興味がなかったから覚えていなかったのか。ヒロにとって、その違いは意味を持たないのだ。
彼が引き受けていたのは、「覚えていない」という事実そのものだった。理由が何であれ、ムヒの感情が自分を向いていないという結果は変わらない。その距離だけが、静かに、しかし確実に残っていく。ヒロは、その違和感を解き明かそうとしない。なぜなら、答えを知ることよりも先に、すでに分かってしまっているからだ。自分は選ばれていない――その距離の前で、彼は理由を問い直すことなく、踏み込みすぎない態度だけを重ねていった。



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