恋人が亡くなったあと、もし目の前に“同じ顔”の人が現れたら。映画『楓』は、そんな極端な設定を用いながら、喪失の物語を描いていく。双子の弟・恵を失った兄・涼は、恵のふりをして亜子のそばに立ち続ける。その関係は、不自然で、長く続けられるものではない。それでも本作が見つめているのは、正しさや是非ではない。愛する人を失ったとき、人はどうやって世界とつながり直すのか。『楓』は、その問いに、静かで切実な時間を差し出してくる。
“兄”が“弟”に成り代わる――穏やかな日常が隠す歪な関係
須永恵と木下亜子は、ニュージーランドを旅行している。夜空に広がる星の話をしながら、二人は車を走らせている。二人にとって、星は特別な存在だ。穏やかな時間の中で、恵は何かを言いかける。だがその言葉が形になろうとした瞬間、トラックが正面から突っ込んでくる。激しい衝突音とともに、物語は幕を開ける。
次に描かれるのは、帰国後の日常だ。亜子と“恵”は、以前と変わらない生活を送っているように見える。朝、二人で家を出る。家事を分担を賭け、「外来語禁止ゲーム」でふざけ合う。道ばたの野良猫に、二人で餌をあげる。そこにあるのは、事故などなかったかのような、穏やかな時間だ。
だが観客はすぐに気づかされる。目の前にいる“恵”は、本人ではない。彼は双子の兄・涼なのだ。涼は、意図的に恵に似せた装いで家を出る。眼鏡をかけ、恵の服を身につける。しかし途中で着替え、仕事場では「涼」として振る舞う。彼が“恵のふり”をしていることは、早い段階で明示される。そして、同時に観客は気付く。ニュージーランドの事故で、恵は亡くなったのだと。目の前にいる涼を、恵だと思い込んでいる亜子を見て、観客は思う。
――亜子は、恵が死んだことを知らないのだろうか。
――亜子は、目の前にいるのが涼だと知った時、どうなってしまうのだろうか。
なぜ涼が恵のふりをしているのか。亜子がそれを疑わない理由は何なのか。経緯はまだ明かされない。だがこの時点で観客は直感する。この映画は、「この関係が、どんなかたちで終わりを迎えるのか」を問う物語なのだと。
事故のあと、亜子と涼の間には、奇妙なほど穏やかな時間が流れている。涼は“恵”として朝を迎え、家を出て、仕事場では“涼”として一日を過ごす。二重生活は綱渡りのようなものだが、それでも日常は、かろうじて形を保っていた。
だが、その時間は長くは続かない。ニュージーランドでの事故の後遺症によって、亜子の視界が二重に見える「複視」を発症してしまう。それは日常の些細な違和感から始まり、やがて手術が必要な状態であることがわかる。亜子は、恵に心配をかけまいと、出張だと嘘をつき、ひとりで手術を受ける決断をする。
喪失のあとに残ったもの――“代わり”ではなく、もう一つの愛
入院の日、その事実を聞きつけた涼は、慌てて病院へ駆けつける。そこにいたのは、手術を終え、眼帯をつけた亜子だった。この場面で涼が口にする言葉は、どれも迷いがない。「そばにいるのは、当たり前だろ」それは、恵として亜子を支えるという役割から出た言葉ではない。目の前にいる亜子を気遣う、涼自身の本心だ。このとき涼は、代わりとして振る舞っているわけでも、同情から寄り添っているわけでもない。亜子の不安を前に、「離れない」という選択を、当たり前のこととして口にしているように見える。
👇涼は、亜子が気づいていることに気づいていたのか――映画『楓』が描く愛のかたち
一方、涼の同僚・日和と亜子の行きつけのレストランの店長・辻は、涼と恵に違和感を感じていた。二人はネットでニュージーランドでの出来事を調べる。そこで目にしたのは「須永恵死亡」の文字。二人は「恵」と名乗る人物が涼であることを悟る。
入院中、日和は亜子のもとを訪れる。そして、言う。「涼さんって気づいてましたよね?」亜子は、目の前にいるのが恵ではないことを、すでに理解していたのだ。亜子は一緒に過ごしているのが涼だと気づいていながら、尚、この関係を続けていたのだ。
手術後、静養のため実家へ戻る途中、亜子と涼は母校に立ち寄る。そこは、亜子と恵が出会った場所だ。合唱コンクールをきっかけに距離が縮まり、写真を撮り合った、物語の始まりが刻まれた屋上。そこで亜子が語るのは、“あなたが涼だと気づいていた”という告白。
「ごめんなさい…でも、あなたがいなかったら耐えられなかった」
二人は、それ以上の説明を重ねない。引き止めることもなく、ただ別れる。この別れは、愛する人の喪失の中で成立してしまった関係を、これ以上続けないための、静かな選択として描かれる。
そこから三年の時間が流れる。亜子は、恵と生前に探していた未発見の彗星を探しながら、日常を生きている。それは過去に縛られ続ける生活ではない。恵を忘れたからではなく、恵を失ったままでも、生きられるようになった姿だ。一方、涼は写真家として世界の星空を撮影している。彼もまた、恵の代わりを生きることをやめ、自分自身の時間を歩いている。その三年間、二人が会うことはなかった。
ある日、亜子は彗星を発見し、国立天文台へ通報する。そのとき、同じタイミングで、涼もまた同じ星を見つけ、通報していたことを知る。彗星に二人の名前が刻まれることはなかった。けれど、何万光年の彼方にある光を、同じ瞬間に見上げていたという揺るぎない事実が、二人の止まっていた時間を静かに動かし始める。亜子は、涼を探しに海外へ向かう。再会の場面で、二人は過去を取り戻そうとはしない。失われた時間を埋めることもない。それでも、再び向き合うことができた、という事実が示されて、物語は終わる。
『楓』は、「真実が明らかになる瞬間」を描く映画ではない。観客は、涼が恵のふりをしていることを早い段階で知らされ、「いつ亜子がそれに気づくのか」「そのとき関係はどう壊れるのか」を待つ。だが、この物語が進んでいく先は、愛の行き先を決めつける場面ではない。涼が恵の代わりとして亜子のそばにいたことで、亜子は、すぐに“死”と向き合わずに済んだ。それは現実から目を背けるためではなく、向き合うための時間を確保するための猶予だった。
亜子は、“恵”としての涼を見ていたかもしれない。だが同時に、涼の言葉や振る舞いを、確かに“涼”として受け取っていた。だからこそ亜子は、恵を失ったという事実を、少しずつ受け入れていく準備ができたのだ。
この不完全な関係は、恵の代替として始まった。だがその時間は、亜子がひとりで死と向き合わないための支えでもあった。立ち直るとは、失ったものを忘れることではない。誰かに埋めてもらうことでもない。失われた事実を、誰かと一緒に受け止められる地点まで、自分を運んでいくことだ。涼が恵の代替を引き受けた時間は、亜子が“別れ”に向かうための、必要な通過点だった。




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